県立新潟女子短期大学の閉校にあたって
式 辞
「県立新潟女子短期大学」の閉校式にあたり、ここに、森 邦雄新潟県副知事、中野 洸新潟県議会副議長をはじめとするご来賓の方々、そして本校の発展を支えてこられた教職員、関係者のご列席をいただきましたことを厚く御礼申し上げます。
先ほど、県立新潟女子短期大学最後の修了式を、ご来賓の方々やご家族のご列席のもと、厳かなうちにとり行われ、十名の修了生を無事送り出すことができましたことを、まずもって、ご報告させていただきます。
本学は、昭和三十八年四月に、「深く専門の学芸を教授研究し、職業又は実際生活に必要な能力を有する教養の高い女子を育成する」ことを目的に、「被服専攻」と「食物専攻」とを持つ家政科だけの単科の女子短大としてこの地「海老ケ瀬」に誕生いたしました。
そして、昭和四十一年には、「幼児教育科」と「英文科」を増設し、平成五年には国際化が進展する中で、日本海対岸諸国との交流に役立つ国際的視野を持つ人材育成のために「国際教養学科」を新設するとともに、学科・専攻名称の変更や定員増、「生活福祉専攻」の新設など、大幅な拡充強化が図られました。
これにより、県立新潟女子短期大学は四学科三専攻の公立短大の中では全国屈指の大規模短大となったところであります。
さらに、平成七年には、全国の公立短大で初めて学位授与機構認定の二年制の「専攻科食物栄養専攻」が設置されたものです。
このように本学は、開学以来四十九年にわたり、地域社会の中で高い評価と信頼を得て、新潟県の女子高等教育機関としての使命を果たしてきたところであります。
本日の修了生を含めて、これまでの間に社会に送り出した一万一千四百八十三人の卒業生・修了生の方々が、幅広い分野で活躍され、地域社会の中で高い信頼と評価を得て新潟県の女子高等教育機関としての使命を果たしてきたことは、まことに喜ばしいものであります。
これもひとえに、歴代の先生方、先輩の方々が、県立新潟女子短期大学の発展のためにご尽力された
たまものと深く敬意を表する次第であります。
短大は今年度末で廃止され、その役目を終えますが校舎は平成二十一年度に設立された「新潟県立大学」に引き継がれており、「地域に根差し、世界にはばたく」優れた人材が数多く育ってくれることを願っております。
県立新潟女子短期大学最後の学長として今日の日を無事迎えることができ、皆さま方にあらためて感謝申し上げます。
終わりに、本学創設以来、本校の発展のためにご尽力いただきました初代 田沢康夫学長はじめ七代にわたる学長先生、教職員の方々、新潟県、後援会、同窓会及び地域の皆さまのこれまでのご支援とご協力に厚く御礼申し上げます。
皆さま方のますますのご健勝とご発展を祈念申し上げ、ここに、平成二十四年三月三十一日をもって県立新潟女子短期大学は閉校することを、宣言し、式辞といたします。
平成二十四年三月二十三日 県立新潟女子短期大学 学長 猪口 孝
沿革
県立新潟女子短期大学のあゆみ
県立新潟女子短期大学は、昭和38年(1963年)4月1日、それぞれ1学年の学生定員を40名とする被服専攻と食物専攻とをもつ家政科だけの単科の女子短大として、新潟市海老ケ瀬の地に誕生した。
日本に短期大学が発足した昭和25年(1950年)から13年が経過し、短大の総数は全国ですでに321校(国立28校、公立41校、私立252校)に達し、翌昭和39年(1964年)は、短期大学が日本の高等教育の一機関として正式に承認される年であり、我が国の経済はすでに高度成長期を迎えていて、短期大学もすでに隆盛期にはいっていた。
県立新潟女子短期大学は、発足して3年目の昭和41年(1966年)に、当時の大学志願者急増対策として学生の定員増を求める世論を背景にし、幼児教育科(1学年の定員40名)と英文科(1学年の定員80名)を増設した。それに合わせて、第2棟校舎が竣工した。英文科が増設されたのは、短大設立以前から、家政科とともに女子の教養を高めるための文科系の学科(国文科か英文科)の必要性が叫ばれていたからである。幼児教育科が増設されたのは、幼児教育関係団体から県内に幼稚園教員養成を主な目的とする高等教育機関が必要であるとの強い要請があったからである。
県立新潟女子短期大学は、前身も母体も何もないところから、つまり、無から、出発した。それゆえ、田圃の真ん中にぽつんと出現した1棟の(その校舎は翌昭和39年の新潟地震に見舞われて、今もその傷跡を残している)、あるいは2棟の校舎のなかで未経験の「短期大学」を始めた草創期の教員や事務局の嘗めた苦労、学生たちの味わったに違いない不自由や不便は、今となっては想像することも難い。しかし、その想像もできない困難な状況のなかで、教職員、学生の情熱によって、広く世間に注目されている県立新潟女子短期大学の真摯な気風と輝かしい伝統の礎が築かれたのである。
平成2年(1990年)6月、県の依頼によって設置された「大学等高等教育の推進に関する懇談会」は提言として『新潟県における大学等高等教育の推進について』を発表した。この「懇談会」は、特に専門委員会を設けて、県立新潟女子短期大学について検討させ、その専門委員会の結論を全面的に了承している。
その専門委員会は、正式には「県立新潟女子短期大学専門委員会」と言い、女子短大について討議を重ねて、その結論を『県立新潟女子短期大学の強化拡充に関する報告書』として、前記の「懇談会」に提出している。「懇談会」はその報告書の内容を全面的に了承しているわけであるが、その報告書は、県立新潟女子短期大学について次のように評価している。
「県立新潟女子短期大学は、昭和38年4月の開学以来地域社会の中で高い信頼と評価を得、高等教育機関としての使命を着実に果たしてきた。現在も同短期大学へ進学を希望する者は多く、例年志願者は定員の4〜5倍、学科別でも2〜6倍である。そして、就職決定率は100%(平成元年度卒業者)と社会的期待にも十分に応えているといえる。」
県立新潟女子短期大学は昭和63年(1988年)に創立25周年を迎え、その記念事業のひとつとして『県立新潟女子短期大学二十五年史』を出版した。女子短大の25年の歴史はその本に詳細に記録されているので、ここで繰り返すことはしないが、先の「専門委員会」の評価は、県立新潟女子短期大学の創立以来の四半世紀の教育研究活動に対する外部評価と見なすことができる。
一方、上記の提言『新潟県における大学等高等教育の推進について』に基づいて、県立新潟女子短期大学の新しい段階が準備されることとなった。
先に述べた「懇談会」が『提言』を発表した年の前年、すなわち、平成元年(1989年)の6月に、県立新潟女子短期大学は、その将来構想委員会が1年半の月日をかけてまとめた『県立4年制大学設置要望案』を設置者に提出した。それは、県立新潟女子短期大学を土台にして県立の4年制大学を設置して欲しいという要望であるが、県立女子短大にはそもそもの開学の当初から、教員の間のみならず短大後援会のなかにも、4年制大学への転換を望む声が強く存在し続けていた。その理由は、単に「花嫁学校」としてではなく自立した専門家・職業人を養成する高等教育機関としては2年間は余りに短く、いきおいカリキュラムも超過密になってしまうこと、にもかかわらず、いかに努力しても、社会の高度化と産業の高度化・複雑化が進むなかでは短大卒業程度の専門家は余り高くは評価されないこと、さらに、新潟県の大学進学率は全国的にみて異常に低いので大学設立が求められていること、等である。しかし、4年制大学への要望は、県の財政難と短大への社会的需要が存在するとの2つの理由で、設置者に受け入れられることがなかった。平成元年の『県立4年制大学設置要望案』も同様の運命をたどった。
先に述べた「大学等高等教育の推進に関する懇談会」の専門部会である「県立新潟女子短期大学専門委員会」は、県立新潟女子短期大学が「高等教育機関としての使命を着実に果たし」、「社会的期待にも十分応えている」が故に「今後とも短期大学として社会的責任と役割を担うことが必要」であるとし、4年制大学の設置は検討の余地があるとしつつも、県立新潟女子短期大学は短大として「今後とも一層の強化充実が図られるべきである」との結論を下した。これに基づいて県知事は「県立新潟女子短期大学基本構想委員会」に意見を求め、同委員会は平成2年11月20日に『県立新潟女子短期大学強化拡充に関する基本構想報告書』を作成した。この報告書に基づいて、平成5年(1993年)4月より、県立女子短大は次のように拡充強化された。
1)国際化が進展するなかで日本海対岸諸国との交流に役立つ国際的視野をもつ人材育成のために「国際教養学科(入学定員100名)」を新設。2)社会的需要に応えて英文科の入学定員を80名から100名に増員し、科名を「英文学科」に変更。3)社会生活の変化に伴って家政学の内容が大きな変革を迫られている折から家政科を「生活科学科」に名称変更し、そのなかの被服専攻と食物専攻をそれぞれ「生活科学専攻」、「食物栄養専攻」に名称変更。4)生活科学科のなかに「生活福祉専攻(入学定員50名)」を新設。これは県立保育専門学院の閉鎖に伴う措置である。
この拡充強化により、県立新潟女子短期大学は4学科3専攻、学生入学定員370名、総学生数740名の、公立短大のなかでは指折りの大規模な短期大学となった。さらに平成7年(1995年)には、食物栄養専攻の上に、学位授与機構認定の2年制の専攻科(定員10名)が設置され、学士(栄養学)、管理栄養士、さらには大学院への道が開かれた。