量子化学関連ソフトウェアの開発と評価に関する研究

埼玉大学工学部応用化学科
時 田 澄 男

1.はじめに

 これからの社会は,あらゆる情報が飛び交う高度情報化社会となることが確実視されている.関連するハードウェアも急速に進歩し,いわゆるマルチメディアの時代を迎えている.これらの豊富な媒体を利用することにより,これまでにない新しい研究や教育が展開しうることは論を待たない.しかしながら,化学の分野では,情報処理技術を新しい研究に直結させる工夫はきわめて少ないのが実情である.我々は,マルチメディアの活用の一環として,コンピューターを用いなければ達成できない種々の新しいビジュアリゼーション手法(サイエンティフィック・ビジュアリゼーション)について,特に,量子化学の分野で研究を展開してきた1,2).最近の新しいメディアを活用すれば,従来は静止画が主であった表現手法を,動画を中心とするものに置き換えることも可能である3).これは,化学の研究・教育における表現手法を拡大するのみでなく,質的な向上をも意味するものである.また,インターネットをはじめとする情報伝達技術が普及し,価値ある映像を広く浸透させる環境も整いつつある4)

2.研究目的

 化学の研究・教育において,量子化学が重要であることは早期に認識され,現在では,化学のあらゆる領域の基本原理であるという観点が定着している.しかしながら,原子分子などのミクロな世界は,波動性と粒子性を併せ持つ量子力学的粒子で記述されるため,その物理的イメージの表現には,種々の工夫が必要となる.このように,巨視的な世界での常識では理解が困難な量子力学の世界を可視化するためには,コンピューターを利用したサイエンティフィック・ビジュアリゼーションの手法が不可欠であり,また,最も効果的でもある2).  最近では,LD(レーザー・ディスク),CD−R(レコーダブル・コンパクト・ディスク),VT(ビデオ・テープ)など,複数のメディアを併用してこの効果をさらに向上させる試みも可能となった.本研究ではコンピューターを用いた科学計算によって解き明かされる量子化学的諸現象を,マルチメディアを活用して動画や静止画として記録・再生することにより,サイエンティフィック・ビジュアリゼーションの新しい応用の世界を切り拓くことを目的としている.

3.『波動性を持つ粒子』の表現

 古典力学では,「粒子であり,しかも,波動である」ということはないが,量子力学が取扱ういわゆる「量子力学的粒子」は,波動性と粒子性を併せ持つ.このような性質は,たとえば,スリットを通る光が遠く離れたスクリーン上に干渉縞を生ずる実験(Youngの実験)を,光子の数を極端に減少させて実施することにより視覚的に示せることが知られている.すなわち,一個の光子がスリットを通過した直後でスクリーン上のどの位置に観察されるかを検出すると,あたかもでたらめな位置の粒子像が認められるという結果が得られる.このとき,観察される個々の粒子像に潜在的に波動性が含まれることは,このような観察を繰り返すことにより波動性から予測される一定のパターンの干渉縞が生まれることから理解される.上記の実験結果を映画に収録した資料5)は既に存在し,初学者の理解を助ける教材として活用されている.われわれは,この実験をコンピューター上でシミュレートし,結果をディスプレイ上に表示するプログラムを開発した1).このソフトウェアには,下記の利点があることが認められた.
^ ビデオでは常に一定の画像が出力されるのに対し,コンピューターでは常に「でたらめな位置」に最初の一個の粒子像が観察される.つまり波動性を併せ持つ粒子像の真の意味でのシミュレーションが可能である(図1).
_ パソコン室等を利用すれば学生一人一人が上述した異なる結果を確認することができる.
` 身近な装置で高度の実験のシミュレートが可能.
a スリット幅を減少(位置の不確定さ を減少)させれば,干渉縞の幅が増大(運動量の不確定さ が増大)することをシミュレートしうるため,不確定性原理()の説明にも利用しうる1)

図1.光子1個1個の「干渉」のコンピューター・シミュレーション(2回の結果を比較したもの)

4.『軌道概念』の表現

 原子や分子の中の電子の状態は原子軌道や分子軌道によって示すことができる.電子は,光と同様,量子力学的粒子としての性質を持つ.したがって,これらの「軌道(オービタル)」は波動性と粒子性を併せ持つが,前者の性質の可視化については,これまで,あまり強調されていない.
 われわれは,水素原子の原子軌道の表示方法について種々検討し,これらが三次元の波動の性質を持つことを二次元の振動(円形膜に起こる定常波)のパターンとの対比によって示した(図2).
 一次元や二次元の定常波は弦や膜の振動6)という現実の系をシミュレートすることにより視覚化しやすいが,三次元の定常波の可視化は原理的に難しい.しかし,三次元の定常波の断面は二次元の定常波そのものとの対比が可能である.したがって,両者のパターンを比較することにより,二次元の波から三次元の波への類推が可能となる2,3,7)
 水素原子の Schroedinger の波動方程式を解くと,原子軌道が,まず,複素関数を含む一連の数式で求められる.これらの一部の組(たとえば)について,規格化直交系の条件の下で一次結合をとると,原子軌道の実関数の組(たとえば 3dzx と 3dyz )が求められる.筆者らは,この種の組み替えをグラフィカルに表示する方法について検討した.関連するカラー画像は,J. Chem. Software 誌のインターネットアクセスにより得ることができる4c).ここでは,複素関数で表示した原子軌道の平方はドーナツ状の等値曲面で示されるが,これを磁気量子数の絶対値|m|の数の平面でz軸を含んで等分割し,それぞれの分割図形の角を丸めるとクローバー型の実関数の等値曲面が得られる3,4c,8,9)

5.『軌道の干渉による化学結合の生成』

 2つの原子軌道が位相を合致させて(in-phase)重なると,安定な分子軌道(結合性軌道)が出来,位相が異なる(out-of-phase)重なりでは不安定な分子軌道(反結合性軌道)

図2 円形膜に起こる定常波(古典力学における振動パターン:左)と,水素原子の原子軌道の断面のパターン(右)とのアナロジー.


となる.このことは,光の波の干渉において明部(強め合い)と暗部(打ち消し合い)を生ずる事実との対比で考えると理解しやすい10).原子軌道の重なりにおいて,軌道の位相(つまり,軌道における波動としての性質)がいかに重要かを示すために,二原子分子の生成において結合領域がどのように生じるかを表示するプログラムの報告例もある2)
 以上のように,コンピューターを活用することにより,従来ビデオ等によって表現されていた領域を拡大し,新しい利用方法が可能となった.

6.化学教育への活用

 現在,上記のようにして作成したソフトウェアのWWW(World Wide Web)サーバへの登録によるインターネットからの読み出しの実現4c),ならびに,CDの配布等による機能評価9)を行っている.原子・分子レベルの動的事象は,コンピューターを利用してはじめて達成し得る可視化対象が豊富である.可視化の作業は必ずしも容易ではないが,一旦,可視化技術を習得すれば,「いままで誰も見たことのない映像」を種々の学術的見地から作成することが出来,その活用分野はほとんど無限と云って良い.このような動画像は,研究・教育上,「想像力の育成」と「知的好奇心の刺激」に対してきわめて効果的であることが期待される.

7.おわりに

 ミクロの世界の可視化に際しては,企画の段階から十分な検討がなされ,各方面の研究者との議論を経た上での実施が不可欠である.動画像の印象はきわめて大きいため,安易な可視化が誤った理解を引き起こす危険を念頭に置かなければならないからである.同様の理由で,作成後の評価も厳密に行われるべきものであり,各専門分野の有識者を集めた組織的な研究が必要と思われる.
 科学的に価値のある動画像をマルチメディアを用いて有効利用する試みは,最近,諸外国でもその萌芽が随所に見いだされる4).われわれは,機能性材料の開発11-17)と関連させて,これらの技術を活用する方法についても研究していきたいと考えている.

文献
(1) 時田澄男, "目で見る量子化学", 講談社 (1987), (2) 時田澄男, 現代化学, No. 190, p. 43-45 (1987); No. 191, p. 27-29 (1987); No. 192, p. 49-51 (1987); No. 193, p. 51-53 (1987); No. 194, p. 51-53 (1987); No. 195, p. 51-53 (1987); No. 197, p. 61-64 (1987); No. 201, p. 27-30 (1987); No. 208, p. 51-54 (1988); No. 209, p. 46-49 (1988); No. 211, p. 57-61 (1988); No. 213, p. 50-55 (1988); No. 214, p. 27-32 (1989); No. 218, p. 58-63 (1989); No. 220, p. 51-55 (1989); No. 224, p. 55-59 (1989); No. 225, p. 48-53 (1989); No. 228, p. 51-55 (1990); No. 238, p. 26-30 (1991); No. 240, p. 50-54 (1991); No. 242, p. 51-55 (1991); No. 244, p. 30-33 (1991); No. 246, p. 51-54 (1991); No. 247, p. 45-50 (1991); No. 270, p. 51-57 (1993); No. 279, p. 28-32 (1994).
(3) 時田澄男, 浜田義昭, "計算化学補助ビデオ教材―オービタルとは何か―水素原子の原子軌道" , 放送大学 (1992).
(4)たとえば,以下の URL で参照可能: a) http://www.chem.latech.edu/~ramu/ramu_aorbs.html
b) http://www.chem.brown.edu/chem50/Notes/Atomic-Orbital.html
c) http://cssjweb.chem.eng.himeji-tech.ac.jp/jcs/v3n1/a5/abst.html
d) http://www.hatalab.sccs.chukyo-u.ac.jp/~mika/kidou.html
e) http://www.fukumura-lab.sccs.chukyo-u.ac.jp/personal/grad/usui/
f) http://sugagw.ci.noda.sut.ac.jp/~hashimo/Chemistry/Orbital2/index.html
g) http://www.chem.wisc.edu/  h) http://www-wilson.ucsd.edu/education/qm/Orbitals.html
i) http://www.colby.edu/chemistry/OChem/demoindex.html
j) http://quanta0.nihs.go.jp/vrml/  k) http://www.chemistry.wustl.edu/EduDev/Orbitals/index.html or http://wunmr.wustl.edu/EduDev/Orbitals/
l) http://www-wilson.ucsd.edu/education/qm/Orbitals.html
m) http://www.urban.ne.jp/home/ichiya/vrml/VRML_index.html
n) http://yip5.chem.wfu.edu/yip/VR/3DAO.html  o) http://www.physics.ucla.edu/~dauger/
(5) 有馬明人監修, "光への誘い", 日経映画社, (6) 時田ら, "目で見る力学", 講談社 (1991).
(7) S. Tokita, F. Kido, T. Sugiyama, N. Tokita, C. Azuma, the 1995 International Chemical Congress of Pasific Basin Societies, CHED62, CHED51 (1995).
(8) 時田澄男, 渡部智弘, 木戸冬子, 前川仁, 下沢隆, J. Chem. Software, 3, 35 (1996), (9) 時田澄男, 木戸冬子, CACS FORUM, 16, 21-30 (1996), (10) 時田澄男, 化学, 51, 410-411 (1996).
(11) K. Hiruta, S. Tokita, K. Nishimoto, J. Chem. Soc., Perkin Trans. 2, 1995, 1443.
(12) Y. Kubo, S. Maeda, S. Tokita, M. Kubo, Nature, 382, 522-524 (1996).
(13) M. Yagi, S. Tokita, K. Nagoshi, M. Kaneko, J. Chem. Soc., Faraday Trans, 92, 2457-2461 (1996), (14) S. A. Tucker, H. Darmodjo, W. E. Acree, Jr., M. Zander, E. C. Meister, M. J. Tanga, S. Tokita, Applied Spectroscopy, 46, 1630-1635 (1992).
(15) S. Tokita, T. Watanabe, Y. Fujita, H. Iijima, S. Terazono, Mol. Cryst. Liq. Cryst., 297, 269-276 (1997), (16) 時田澄男, 化学, 46, p. 450-453 (1991), (17) 時田澄男, "カラーケミストリー", 丸善, (1982).